神中鉄道から相模鉄道へ
現在の相鉄本線はもとは神中鉄道という会社が敷設した鉄道だった。
しかし戦時期に五島慶太社長の経営のもと、厚木駅で接続していた相模鉄道に吸収合併される。
その合併のたった一年二カ月後、本流である相模線が国鉄に買収され、元神中鉄道の路線が相模鉄道の本線として現在に至ることとなった。
大東急への営業委託
大東急とは陸上交通事業調整法による戦時統制下に、周辺の私鉄を合併していた東京急行電鉄の事を指す。
相模鉄道は東京急行電鉄に合併こそされなかったものの、大東急を指揮していた五島慶太が1941年から社長として就任しており、東京急行電鉄の傘下にあった。
戦争が激化する1945年5月に相模鉄道は自力での鉄道運行事業を行うことが困難となり、鉄道事業の営業を東京急行電鉄に委託した。
この営業委託があったため、合併はしていないが、相模鉄道は大東急に属していた路線とされる。
東京急行電鉄への営業委託時は東急厚木線として運行されていた。
また、大東急への経営委託時は余剰資材の転用や電化の推進、他路線からの軌条の転用などかなり優遇されていた。
これは軍から厚木線の輸送力増強が要望されていたことにもよる。
具体的には京急逗子線、小田急江ノ島線、東急世田谷線から軌条などの転用がされたという。(戦時中に複線化は間に合わず、これらの資材は返還された)
戦後の急成長
戦後1947年になって東京急行電鉄から委託を解除し、再スタートした相鉄は荒れ果てていた横浜駅西口の開発に乗り出す。
鉄道の営業を委託していたことからも分かるように、この頃の相模鉄道は営業状態も悪く、東京急行電鉄から出向していた社員に「古物博覧会」と言われるような有様だった。
そんな状況の相模鉄道が一世一代の社運を賭けた事業として取り組んだのが横浜西口の開発である。
結果的にこの開発が大成功し、横浜西口が横浜を代表する商業地帯になったことで相鉄は急激に成長していくこととなる。
その後収入は大手私鉄に匹敵していたものの、路線長が短すぎるという理由で大手私鉄入りを逃していたが1990年にいずみ野線の延伸により準大手私鉄から大手私鉄に昇格した。
参考文献
- 相模鉄道株式会社『相鉄五十年史』1967年
- 相模鉄道株式会社『相鉄100年史』2017年
- 鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル1976年5月号』1976年
- 今尾恵介『地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み 関東3京成・京急・相鉄』白水社、2015年